Éternité -永遠-
*注意書き
・焦れ焦れメンさん
・「Éternité」はエテルニテと読む
Éternité -永遠-
―――メンフィス―――
―――メンフィス―――!
「―――っ!」
息を呑むようにして慌てて飛び起きた。
激しい動悸を抑えるように胸に手を当てて辺りを見回し、それが夢であったと気付き、ほぅっと安堵の息を吐き出す。
肩で大きく息をしながら呼吸が落ち着くのをじっと待った。
だが激しい胸の鼓動は少しも収まってはくれず、とくとくと全身の脈が熱く波打つのを感じていた。
また……ライオンの夢?
あの婚儀の日以来、幾度と無く夢に現れては再び容赦なく襲い掛かる巨大で獰猛な獅子。
冷や汗がじっとりと額や背中を伝い、寒気と恐怖が再びキャロルを襲った。
メンフィス―――
こんな時、メンフィスが傍にいてくれたら―――
正式な儀式を終えぬ以上、褥を共にすることは許される筈も無い。
だが、ただ傍にいてくれるだけでいいのだ。
一晩中ただ傍にいて見守っていて欲しい―――しかしそれは、熱い思いを極限まで耐え、我慢し続けているメンフィスにとって拷問に等しい。
キャロル自身にもそのことはよく解っているつもりだった。
我が侭を言うわけにはいかない。
いつものように自分にそう言い聞かせると、キャロルは少しずつ呼吸が落ち着いてくるのを待ち、再び横になりまんじりともせずに天井を見上げた。
……ママ……
こういう時、思い出してしまうのは優しい母の笑顔だった。
そして大好きな二人の兄達。
ごめんなさい、ママ……
ごめんなさい、ライアン兄さん、ロディ兄さん……
ごめんなさい、天国のパパ……
わたしはもう、現代には帰らない。
わたしは今度こそ、メンフィスの花嫁になるの。
ここ古代で、メンフィスと生きていくとそう決めたの。
しあわせになるから……だからどうか、許して。
何度心の中で詫びても祈っても、それが届く筈もないことは嫌というくらいに解っていた。
そんな時、心を落ち着かせる為にいつもキャロルがしていること―――それは愛しい人が身に纏う香りを思い出すことだった。
遠い遠い家族への思いを断ち切るように、その許しを請うように、キャロルは胸の上で指を組んでそっと瞼を閉じた。
―――漸くキャロルが再びぐっすりと眠ることが出来たのは、既に天空の女神がその日の太陽を無事に産み出した頃だった。
様子を見に来た侍女の気配にハッとしたように瞳を開けると、既にメンフィスは政務に向ったことを知らされる。
アッシリアから戻って以来、メンフィスは激務に追われる日々を送っている。
それでも毎日、僅かなりとも時間を作っては、何度もキャロルに会いに来てくれるのだった。
そんなメンフィスの前では、毎晩のように見る恐ろしい夢も、アイシスの仕打ちによる不安も、訪れているバビロニア王への不審な気持ちも、何もかもがその時だけは消え去り、メンフィスへの愛しさと嬉しさだけがキャロルを支配した。
漸く愛しい人の腕の中へ戻れた喜びと幸せが、キャロルの頬を緩ませる。
抱き締めて頬に口付けをくれる度に、待ちきれない、と逸る気持ちを隠そうとしないメンフィスに、気恥ずかしさと愛しさがますます募る日々。
と同時に襲い掛かる不安な気持ち――
ともすれば不安な思いに支配されそうになる心を必死で笑顔の裏に隠し、メンフィスの前ではいつでも元気に振舞うキャロルだった。
だがそんな毎日に疲れたのだろうか。
ある日、メンフィスが傍にやって来た事にも気付かず、キャロルは庭先にある池の辺で疲れたような不安そうな顔をして俯いてしまっていた。
それを目にした刹那、メンフィスの心にも何とも言えぬ不穏な思いが湧き起こっていた。
「――キャロル」
「――あ、メンフィス!」
「如何したのだ?そのように浮かぬ顔をして」
「えっ!?」
メンフィスはキャロルの傍に腰を下ろし、いつの間にかすっかり肩の下まで伸びた金色の髪を撫でるようにしながら心配そうにキャロルの顔を覗きこんだ。
「そなた――まさかまだ体から毒が抜けきっておらぬのか?報告では朝も起きて来ぬようだし、未だ具合が悪いのを隠してはおるまいな?」
「そんなことないわ。もうすっかり元気になったもの」
そう言ってにっこりと微笑を向けるも、その笑顔にどこか陰りが潜んでいることに目ざといメンフィスが気付かない筈が無い。
メンフィスはキャロルの顎をくいっと持ち上げると、鋭さを増した瞳を突き刺した。
「まさか……またしてもこのわたしから逃げようなどと――」
「や、やあねメンフィス。そんなわけないじゃない」
「では何故そのような浮かぬ顔をしておる?」
「え?そ、そう?わたし、そんな顔をしてた?」
「キャロル」
「あの……実は……昨夜よく眠れなかったの。きっとそれで疲れたのよ。心配しないで、メンフィス」
「何故早くそれを申さぬ!」
「え? ――きゃあ!」
メンフィスはキャロルを軽々と抱き上げると、宮に向って歩き出した。
「ちょ、ちょっとメンフィス!やだ、下ろして!」
「ならぬ!そなたは未だ無理をしてはならぬ」
「やだ、み、みんなが見てるじゃない!」
「大人しくいたせ」
「メンフィス!」
やがてキャロルの寝室へと辿り着いたメンフィスは、寝台にキャロルをそっと下ろして上掛けをかけてやった。
「メンフィス、あの……」
「そなたは未だ疲れが残っておるのだろう。ゆっくりと休め」
「あ……」
額と手の甲に優しい口付けを落し、再び政務へと戻って行く若き王の背中を見つめ、キャロルはそっと小さく溜息を吐いた。
本当はわたし……
メンフィスにもっと傍にいて欲しいのに。
こうして僅かな時間を見つけては何度か顔を見せてくれるメンフィスに、これ以上我が侭が言える訳などないと心底解っている。
甲斐甲斐しく世話をしてくれるナフテラを始めとした侍女たち、常に身を守ろうと付いてくれるウナスたち護衛の面々。
メンフィスへ我が侭を言うことは、メンフィスだけでなく彼らにも多大な迷惑と心配を掛けてしまうのだ。
メンフィスは愛する人である以前に、この強大な大国、エジプトの王なのだ。
これ以上我が侭は言えない。
でも心の何処からか湧き出てしまう、この不安な気持ちをどうやって宥めればいいのだろう。
時間(とき)が過ぎればこの不安な気持ちも自然と何処かへ消え去ってくれるだろうか。
またしても色々な思いがぐるぐると頭を駆け巡る。
これでは休めるわけが無い。ふとそう気付いたキャロルは苦笑を浮かべて寝返りを打った。
こんな時は、そう。
さっきのメンフィスの香り……
あの香りをもう一度思い出すの。
大好きなメンフィスの、あの香りを。
メンフィスの香りや腕の温もりを思い出そうと瞳を閉じた。
メンフィスがさっきそうしてくれたように、自分の頬に掌を置いて。
それはとても気持ちの良い昼下がり――
優しくて心地良い風がさわさわと木々を揺らし、頬を撫で、髪をふわり、と躍らせるあの感覚。
でも、変ね、いつもよりもくすぐったい気がする――
大好きな池の辺でうたた寝をするわたしの髪を、優しく梳かす指先。
そして風に乗ってふわり、と漂う、大好きな人の香り。
瞳を開けば会えるかしら? でも変ね、瞼が開かない。
これは現実なのかしら。
それともわたしは……夢を見ているのかしら。
けれど、たとえ瞳が開かなくても……あなたを傍に感じるわ、メンフィス。
あなたが傍にいてくれるから、わたしは安心してこうしていられるの。
どうか、ずっとこうして寄り添っていられますように……
永遠というものがあるのなら……メンフィス、わたしはあなたと一緒に……
ずっとずっと、あなたの傍に……
「――ん……メンフィス」
――!?
眠りを妨げてしまったかとその寝顔を覗けば、子供のような笑みを浮かべてやはりキャロルはぐっすりと眠っている。
その顔にまた愛しさがこみ上げ、起こしてしまうことも厭わず激しく唇を奪ってしまいたい衝動がメンフィスを襲った。
だがそんなことをすれば口付けだけで満足出来よう筈もない。きっと抑えが利かないだろう。
強い自制で以ってその欲望をぐっと堪え、ただじっとその寝顔を見つめ続けた。
「ん……」
またもキャロルが小さく声を漏らすようにしてあどけない笑みを浮かべた。
「―――まったく……」
人の気も知らずに―――!
呆れたように短く息を吐き、メンフィスが小さく呟く。
だが恨めしい表情だった筈の瞳は柔らかく細まり、いつしか口元は弧を描いていることにメンフィス自身気付いているだろうか――
では……
ではそなたの夢の中へと参ろうか。
其処でならば、この思いをそなたにぶつけ、思い切り唇を奪っても構わぬであろう?
口元に笑みを浮かべたまま、起こさぬようそっと傍に身体を横たえ、金色の髪を撫でるようにしてメンフィスも瞳を閉じた。
やがて目を覚ましたキャロルが驚きの余り慌てて寝台から落っこちてしまうのであるが、それはまだ少しばかり先の話である。
今はまだ降り注ぐ太陽の光の中、池の辺でふたり、寄り添うようにして―――