抱擁


*注意書き

 ・キリリク作品→お世継ぎ問題
 ・メンさん優しすぎかも




抱擁




夜も明けきらぬ薄闇の中、波の音に王が目覚めた。
ふと左を見下ろせば愛しい妃が寝息をたてている。
いつになく優しい瞳で妃を見つめると王はそっと唇を寄せた。
満足そうな微笑を湛えて眠り続ける妃の長い睫毛が僅かに震える。


漸くそなたと再び一つになれた

この上なく満たされた王の胸の裡に、数刻前の熱が甦る。


こやつめわたしをこのような遠い場所まで来させおって。

おのれどうしてくれよう……


何度口付けても足りぬ。

何度抱(いだ)いても足りぬ。



闇の中滑るように進む船の中、王は再び娘を起こすためにその身を抱き寄せた。









――――「ファラオは一体何をしておられる!ご自身が王妃奪還に向われるなど誠に遺憾千万、無謀にも程がおありではございませぬか!」
「お言葉が過ぎますぞ、大臣殿」
「何を申される、宰相殿。この国の未来を思えばこそ、陛下には何としてでもここはお留まり頂き、まずはお世継を――」
「聞こえませなんだか、テム殿。これは陛下のお決めになったこと。幾ら我々とて陛下のお心までをも――」
「――宰相殿こそ聞こえませなんだか?この国の未来を思えばこそ、と申しておるではござらぬか!何故にそこまであの王妃様にお心をお許しになられる?」
「何と言うことを!陛下のお耳に入れば――」
「――陛下のためを思えばでございましょう。聞き入れて下さらねばそれだけの王ということ。皆心根では同じ思いでありましょう。お怒りを恐れる余り、何方も直々に陛下には申し上げられぬだけのこと」

宰相の眼がキッと細められた。

「ではテム殿、直接陛下に進言されるがよかろう。お手討ちも覚悟のご様子なれば、陛下とて無下に聞き捨てにはなりますまい」

一瞬テムと呼ばれる男は狼狽の顔を見せたが、挑戦的な目を宰相に向けると手を掲げた。







王が無事にトロイで王妃を奪還してエジプトに戻ってきたのは、出立してから一月近くも経ってからだった。
王妃に至っては、二ヶ月近くもエジプトの地を留守にしていたことになる。


漸くエジプトへ帰って来れた。
漸くキャロルがこの腕の中に戻ってきた。

王の喜悦たるやこの上ないもので、以前にも増して妃へとその深い愛情が注がれ、相変わらずの仲睦まじさに、この様子であれば世継の誕生もすぐであろうと皆の期待が一身に集まった。




だがその幸せな日々も束の間、二人に辛い現実と暗い影が忍び寄った。









―――「月の障りでございますか」
「ええ……またきてしまったの」

小声で俯くキャロルに、ナフテラは何と声を掛けたものかと一瞬戸惑った。

「さようでございますか。陽も落ちてまいりますれば、それではお腰がお冷えでしょう?さあ、これをお腰にお巻き下さいませ」

そう言って手にしたベールを手馴れた仕草で折りたたみ、幾分厚みを持たせたそれを王妃の腰にそっと巻き付ける。

「ありがとう、ナフテラ」
「後で暖めたものをお持ちいたします故、今はこれにて」


キャロルの不安は、ナフテラの不安とも一致するものだ。
塩の海での一件がキャロルの体にどんな影響をもたらしたのか。
不安を口に出せば現実のものとなりそうな気がして、キャロルも口にはしない。
だが月の障りの度に俯いては溜息を漏らすその姿に胸が痛む。

焦る必要はない。

そう言って抱きしめてくれるメンフィスの腕の中にいるだけで、そんな不安な気持ちも穏やかになっていく。
それでもまた月の触りが来れば溜息をつく。

そんな日々を繰り返し、時は過ぎて行った。







その夜もメンフィスはキャロルを求めようとした。

月の障りだと知った途端に不機嫌になるのは常のことだが、その日は何となくその色合いが違った。
常ならその不機嫌を遠慮なくキャロルに向けてぶつけてくるのに、この日のメンフィスは自分ひとりで抱え込んでいるように見えたのだ。
キャロルにはそれが夫が我慢するということを覚えてくれたように映り、嬉しかった。

でもそう言えばメンフィスは昼間から少し機嫌が悪かった。
何かあったのかしら?とちらりと思ったものの、結局そのまま睡魔に襲われ意識を手放した。
何しろ月の障りの始めのうちは眠くてたまらない。
隣で横たわるメンフィスだけが眠れぬ夜に溜息をついていた。






それから日に日にメンフィスの機嫌が悪くなっていった。

月の障りが終わったと言うのに、いつまでも、いや、その時以上に険悪な様子を呈する夫にどうしたの?と声をかけても何も言ってくれない。
政治的な不安や問題が起こっているのかと言えば、今現在そういったものは感じられなかった。



「ねえ、メンフィス」
「ん」
「一体どうしたの?いい加減隠し事はやめて」
「何を隠すというのだ」
「だって……」
「そなたはただこうしてわたしの腕の中におればよい」
「そんな」
「何も案ずることなくこの腕にこうして抱かれていればそれでよい」

メンフィスの言葉の中に何かを感じたものの、再び唇を重ねこの身を求め始めたメンフィスに翻弄され、キャロルはその後意識を手放した。









何となく皆の様子がおかしいと気付いた頃には、既に王宮内を見目麗しい女達が闊歩し始めていた。
侍女の数も増え、謁見にも若く美しい娘を連れた地方の豪族が増えてきた。
王妃としてメンフィスの傍に控えながら、キャロルは何となく不快な思いを抱えつつ、それが何であるか自分でもよく解らないでいた。



暫く経ったある日の午後、キャロルは執務室にメンフィスを訪ねた。
特に用事があったわけでもなかったが、どういうわけかメンフィスの顔を見なければ心が落ち着かない。
ざわざわとした胸騒ぎにも似たその思いを何と説明すればよいだろう。
このところ増えてきた、挑戦的な瞳で道を譲るあの侍女達のせいだろうか。
この王宮に初めて連れて来られたあの頃にもあったことだ。
それは決して今に始まったことではないというのに。


供も連れず勝手に自分の宮を飛び出したキャロルは、王の執務室の前まで来ると衛兵に王への目通りを願った。
誰も通すなそう固く言われていると申し訳なさそうに衛兵に告げられれば、いくら王妃でもそれ以上我が侭は言えない。

それなら暫く待っていよう、とキャロルが心を決めたその時、中からメンフィスの怒号が聞こえた。

だんだんとそれは入り口に近付いてくる。
数人の男達の声がした。


「――何度も同じことを言わせるな!側室など持たぬ!」
「陛下!事はもうそれでは済まぬところまできて――」
「――ええい!うるさい!まだ我が妃に子が望めぬと決まったわけではないと申しておろうに!」
「なりませぬ陛下!ここは何としても側室を娶って頂かなければこの国の未来は――」
「――これ以上はもう聞かぬ!」

バタン、と勢いよく扉を開いたメンフィスの目に飛び込んだもの。

それは青ざめて震える、誰よりも愛しい妃の姿だった。









―――「お食事ですよ、キャロル様」
「……いらない」
「いけません!ちゃんと召し上がって下さいませ」
「欲しくない……放っておいて、ナフテラ」


キャロルはあの日以来、自室に篭り床に伏せてしまっていた。
メンフィスをも寄せ付けず、食事も満足に摂ろうともしない。

当然夜も別々に眠った。

朝の礼拝と公務だけはきちんとこなそうと、朝頑張って起き上がってはみるのだが、支度を始めた途端に呼吸が乱れ、吐き気が襲い、酷い動悸がする。
結局それでまた床に伏せる。
侍医の診察を受けても別段異常があるとは言われなかったが、どうしても公務やメンフィスの事を思えば身体がそれを拒否してしまう。

自分の情けなさに悔し泣きながらも、どうしてもあの言葉達が頭から離れない。

側室……この国の未来……子が望めぬ……我が妃……

それらの言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡り、また呼吸が乱れ、動悸が始まる。


頭の隅では理解しているつもりだった。
どうしても子供が出来ないのであれば仕方のないことなのだと。

でもわたしは……
わたしが育ったのは、一夫一婦制の時代、国。
深く愛し合う両親の元で、深い愛情に包まれて育った。
側室や第2の妃など、どうしても受け入れることが出来ない。

でも国の未来の為そう言われてしまえば何も反論出来ない。

わたしがこの時代に戻ってきたことがいけなかったのだろうか
メンフィスと出会ってしまったことが、愛し合ってしまったことがいけなかったのだろうか

違う……違うわ。
わたしはメンフィスを愛したことを後悔なんかしていない。
誰に咎められようとも、メンフィスを愛する気持ちを捨てることは出来ない。

でも……たった一つだけ、後悔していることがあるとすれば……

今更悔やんでも、あの子の命が甦るわけじゃないのに。
メンフィスと前を向いて生きて行こうとあの日決めた筈なのに。

解ってる、このままじゃいけないことくらい。

でも時間が欲しい。
まだ諦めたわけじゃない。

それに、メンフィス自身が拒否しているもの……








懐かしい肌の感触と、良く知った芳しい匂いにふと目を覚ました。

いつの間に自分の傍に忍び込んだのだろうか。
あれ程メンフィスを部屋に入れないでと言ったのに、と思う間も無く、メンフィスの口付けがキャロルの意識を再び朦朧とさせた。

「いい加減にしろ、キャロル。わたしの話も聞け」
「……出て行って。お願い」
「ならぬ。このわたしにそのような命令など」
「お願い出てって」

言葉とは裏腹に、キャロルはメンフィスの胸にしがみ付いて泣いた。


「案ずるなと申したであろうに……そなた、食事も満足に摂っておらぬそうではないか」
言いながら落ち着かせるように髪を撫で、頬に口付けた。

「きちんと食べよ。一刻も早く元気なそなたに戻らねば気が気ではない」

やがて少し落ち着きを取り戻したキャロルは、涙を拭くとメンフィスを見上げた。
そこには真っ直ぐなメンフィスの瞳があった。


その瞳を見てキャロルは漸く理解した。
メンフィスも苦しんでいるのだと。
わたしと同じように葛藤に苛まれているのだと。

そう感じた時、どちらからともなく唇が重なった。


その温かい唇は何も発する事なく、キャロルの体中をただ彷徨った。
唇を、頬を、瞼を、髪を。
首筋を、乳房を、背中を、つま先を……



唇が「愛している」と、そう告げていた。

キャロルはただ泣きながらメンフィスに縋った。






そして翌日、メンフィスは昼餉をキャロルの部屋へと運ばせた。

「共に食せばそなたも食べる気になるであろう」

そう言う夫に溜息を漏らしながらも、キャロルは渋々身体を起こした。

「欲しくないって言ったのに」
「ちゃんと食べねば元気にならぬと散々申しておるに、聞分けの無い」
「だって本当に欲しくないの」

メンフィスは眉根を寄せると、侍女の手から食事の載った盆を取り、視線で退室を促した。
ぞろぞろと侍女や従者達が退室していく様を見て、キャロルは驚いた顔でメンフィスに向き直った。

メンフィスは寝台脇の卓上に食事を置くと、そこからおもむろにパンを手に取り、小さくちぎってキャロルの口元へ運んだ。

「食べよ」
「欲しくないったら」
「よいから食べよ」

メンフィスの瞳の色に抗えず、キャロルは小さく溜息をつくと、口を開きそれを受け入れた。
久しぶりに食べ物が喉を通ったためか、いきなりコホコホとむせるキャロルに水を与えると、メンフィスはスープを手に取り、再びキャロルの口元へ運んだ。

メンフィスの手ごとスープの入った容器を持ち、こくり、と喉を鳴らしてそれを流し込んだ。
気が付けばメンフィスはキャロルの背中をそっとさすっている。

優しい手の温もりに涙が溢れた。



「またそのように泣いて」

メンフィスは手からスープを取り上げると、頬の涙を指で拭ってやった。


「メンフィス、わたし……」
「まずは食べよ。食べねば二度とそなたと話はせぬ。さあ」

言いながら豆の煮込みを口元に運んでやる。

言葉の中に潜むメンフィスの優しさがキャロルの心に沁みた。


わたしは自分のことしか考えずにいた

たとえ側室を迎えても、メンフィスはきっと変らずわたしをこんな風に愛してくれるのに


この人の血をわたしの所為で絶やすことは出来ない。
メンフィスの治世でこの王朝を終わらせるわけにはいかない。

何よりも大事なものはこの国の未来。

わたしとメンフィスはそれを作り出していかなきゃならないのに。

わたしにそれが出来ないのなら……違う誰かに代わりをお願いするしかないのに。


漸くそう思い至り、それをメンフィスに告げようとした途端に、何か込み上げるものがキャロルの胸を焦がした。
本当にもうこれ以上は食べられそうになかった。

「本当にもう無理。メンフィス、ありがとう」
「もっと食べよと申す―――」

言いかけて、妃の顔色の悪さに気付いた王は慌てて大声で人を呼んだ。












……さわさわさわ……


風の動きに合わせて柔らかいものがその動きを変える。

入り口に掛けられた紗、木々の緑、テーブルの上のパピルス、黄金の髪。


今日もまたあの娘を追いかけて走るわたしがいる。

濃い色の蜂蜜みたいな茶色の髪。
わたしよりよく日に焼けたような小麦色した肌。
愛する人と同じ黒曜石のような瞳。

待ちなさい、転ぶと危ないわ。

でもあの娘はお構い無しに一目散に走って行く。

膝を着いて待ち構える、大好きな人の元に。




「―――全く!またあのような場所でうたた寝など!風邪をひけば何とする」
「大丈夫よ、こんなに毎日暑いのに」
「あそこは涼しい場所ではないか!身体を冷やしてはならぬ。せめて何か羽織る物を持て」


呆れて叱りながらも、その声には優しさと思いやりが溢れている。
ゆっくりと合わせてくれるその歩幅が、繋いだ手の温もりがそれを教えてくれた。


' 来い、キャロル。早くしろ '
' メンフィス、もっとゆっくり歩いて……もっとゆっくり '
' なんて乱暴なの……思いやりのかけらもないのね '
' わたしを助けにきてくれた、あの男らしい優しさは見せかけだったの? '

ふと甦るあの日。
あの時の自分に耳打ちして教えてあげたくなる。

本当はこうして一緒にゆっくり歩いてくれる人だったのだと。
この人の優しさは、いつだってこんな風だってこと。


「ふふっ」

「ん?」
「ううん、何でもない」
「何だ?おかしなやつだな」

また堪えきれずに笑ってメンフィスを見上げた。

「何だ?さっきから」
「だから何でもないわ。ただ……」
「ただ?」


幸せよ、メンフィス。

とっても……

とっても……



「……気に入らぬ」
「え?」
「さてはまたわたしの可笑しな夢を見たのだな?思い出しては一人でニヤニヤ笑いおって」
「メンフィスったら。やあね、違うわよ」
「ふん、まあよい。あとで聞かせよ。その夢の話を」


ふふ……
聞いたら驚くわよ、メンフィス。

でもこれはわたしだけの秘密の夢なの。
悪いけど教えてなんかあげないわ。

もう少しだけ内緒にさせて。

そう……あともう少しだから……






やがて階段が二人の目の前に現れた。

メンフィスは当たり前のように、すっかり重くなってしまった身体をいとも簡単に慣れた仕草で抱き上げる。

そしてぷっくりと膨れたキャロルの腹部に、服の上から優しく口付けて微笑んだ。


「さあ、しっかりとつかまっておれ」



ゆっくりと階段を登って行く二人の肩衣と衣装の裾が、ひらひらと風の動きに美しく舞い踊った。






ひとことメモ

 実際問題、側室持たないメンさんは理解不能だったりする……
 
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