魔法の唇
*注意書き
・カーフラ事件後、すったもんだあってやっとこさエジプト帰ってきたキャロさん
・メンさん毒酒事件のすぐ後あたり
・死にそうなほどの胸焼けに要注意
魔法の唇
頬にかかる絹糸のような漆黒の髪をそっと掻揚げると、その美しい眉目が僅かに揺れ動く。
控えめな明かりの中、規則的に上下する広い胸を見下ろし、キャロルはぼんやりと考えていた。
こうして静かに眠る夫の顔を最後に見たのは、一体いつのことだろう。
婚儀を挙げたあの日より、あまり夫の寝顔を見た記憶がないことにキャロルは今更ながら驚いていた。
無論一緒にいれた時間の方が圧倒的に少ないのだから致し方ないとは言え。
婚儀の後すぐにバビロニアへ、そこから戻ればあの「第二の妃」問題で悲しみの中現代へ、現代から戻れば逃げるようにムーサの山へ、そしてヒッタイト兵に浚われオロンテスの山中へ。
そして……悲しみの地となってしまったかの地へ。
考え出すとくらくらと眩暈がするようだ。
一緒に夜を過ごせたとしても、先に意識を手放してしまうのはいつも自分のほうだ。
目覚めれば、いつも必ずと言っていいほど、メンフィスが先に起きていて自分を見つめている。
あるいは体中を廻る悪戯な手に、容赦ない熱い口付けにと、半ば無理やりに起こされる。
この人は眠ることがあるのだろうか……目の覚めきらぬぼんやりとした頭でいつもそう思っていた。
お願いだからゆっくり休んでちょうだい、と言おうものなら。
「そなたがわたしの腕の中で大人しく休んでおらねば気が気でない。
一日の終わり、最後にその蒼き瞳に映るものがわたしでなくば。また、そなたが目覚めし時には最初に映るものがわたしでなくば許さぬ」
そう言って聞く耳を持たない。
だから……
ほとんどあなたの寝顔をわたしは知らない。
こんな風に幾日も寝顔を見続けたのは……そう、コブラに噛まれたあの時以来だろう。
そして今度は祝いの宴のさなかで起こった毒酒事件。
あれから幾日か過ぎ、大きな危機も去り、メンフィスも自力で起き上がれるようになっていた。
現に先日、ミノアへ行くとキャロルが勝手に決めたと激昂した折には、普段と何ら変わらぬ程の様子さえ呈していたのだ。
さすがにその時の無理が崇り、熱がまたぶり返したためこうしてまた大人しく寝ている羽目になったのであったが。
本当に強い人。
あなたはわたしにさえ弱みを見せないのだもの。
自分の存在が、この勇猛果敢なファラオの唯一にして最大の弱点だと知りもせず。
恐ろしいほどの精神力で猛毒さえも寄せ付けなかった目の前の夫の、意外にまだ少し幼さの残る寝顔をじっと見つめる。
こんな時しかあなたって静かに寝ていてくれないのよね。
あなたを普段からこうして心穏やかに安らがせることはわたしには出来ないのかしら。
一時は自分を置いて逝ってしまうかと思われたほどの危機に見舞われていたことを思い、キャロルは寒気を感じながらも改めて安堵していた。
本当に……本当によかった!
あなたに置いていかれたら……わたしはもう生きてはいられない。
目の奥がじん、と潤むのを感じながら、目の前の額にそっと白い手を伸ばした。
少し汗ばんでしっとりと湿った額。
汗を拭こうかと、手を離しかけたその瞬間、その白い手を褐色の手が掴んだ。
「メンフィス、起きたの?」
「……」
何も言わず、ただじっと自分を見つめる少し潤んだ闇色の瞳を見つめ返し、キャロルはもう片方の手でそっとメンフィスの頬をなでた。
「気分はどう?何か飲む?もうじきお薬湯の時間だけど」
「……いらぬ」
メンフィスは頬をなでるキャロルの手をも掴むと、そっとその白い手に唇を寄せる。
「あ……」
両手を掴まれ身動き出来なくなったキャロルは振りほどこうと身を捩った。
「メ……メンフィス」
「……何処へも行くな、そこにいろ……誰も……呼ぶな」
「わたしはここにいるわよ。何処へも行かないし誰も来ないわ。安心して」
まるで子供に諭すように優しく微笑んで夫の顔を覗き込む。
「……ふん」
まるで拗ねた様に唇をへの字に曲げているメンフィスの顔がそこにあった。
まったく……いつまでそうやって!
キャロルがミノアへ行くと決まってより此の方、ずっとメンフィスの不機嫌は続いている。
まるで子供みたいなその拗ねた様子に呆れながらも、心のどこかをきゅっとつねられたような愛しい思いがキャロルの胸を覆っていく。
「ねえ、メンフィス……手を放して」
「ならぬ。放せば何処かへ行ってしまうであろう? もう何処へもそなたをやらぬ」
「ね、そんな子供みたいなこと言わないで」
その言葉にますます憮然とした表情で腕に力を込めるメンフィスを見て、キャロルは何故か愛しさが込み上げた。
まるであの時とおんなじね。
この宮殿に連れて来られた時のように、逃がすまいと力を込めて両腕を掴むその姿に、胸がつぶれそうな思いがする。
愛しくて堪らない。
あなたはあの時と何一つ変わっていないのね。
何一つ変わらずにこうしてわたしを強く激しく想ってくれている。
ただただ真っ直ぐにひたむきに。
変わったのは……
変わったのは、わたしの心。
あなたがそうして力いっぱいわたしの腕を掴むたび、痛くて恐ろしくて、あなたの真っ直ぐな想いが怖くて、精一杯の力を振り絞って抵抗し続けていたあの頃。
そうしなければ家族の元へと二度と帰れないと思ったから。あなたの愛を受け入れるわけにはいかなかったから。
拒絶するしかなかった。
でもいつしか気付けば、そんなあなたを愛してしまっていた。
抵抗することを忘れて、その腕の中に自分を委ねることの心地よさを知った。
その腕の中こそがわたしの居場所だと知った。
あなたを愛して、わたしはまたこうしてこの時代に来て……メンフィス、あなたの傍にいるの。
されるがままにじっと動かぬキャロルをメンフィスはどう思ったのか、ふっと手の力が緩むのを感じた。
「……ここへ」
「え?」
メンフィスは右手をキャロルから離すと、寝台の奥へと少し移動し、キャロルのための寝場所を空けた。
「だ、だめよ、メンフィス。わたしが傍にいたら……」
「よい、何もせぬ。傍で寝ていてほしいだけだ」
その言葉に少し躊躇いながらも、キャロルはサンダルを脱ぎ捨てると、ゆっくりと寝台に上がり、メンフィスの腕の中へと身を埋めた。
「メンフィス」
堪えきれずに思わず二人の口から同じような熱いため息が漏れ、どちらからともなく唇を求め合った。
こうして共に体を横たえ抱きあうのは幾日ぶりであろうか。
漸く昏睡から目覚めたキャロルは少しずつ体力を戻しつつあったとは言え、まだまだ力の限り抱きしめることもままならず。
薬湯だ何だのと五月蝿く取り巻く侍女達や侍医、お付きの臣下達に常に囲まれ、二人きりになることすら出来ず、一度は大声で皆を威嚇し追い出したものの、そうこうするうちに今度は己が迂闊にもあの忌々しい毒酒に倒れ。
やっとそなたと二人きり、こうして抱きあうことが出来たと言うに。
そなたはまたもこのわたしを置いて遠い海の向こうの国へ行ってしまうと言うのか!
何故にそなたはいつもわたしの思いのままにならぬのだ。
柔らかなキャロルを抱くメンフィスの腕に、知らず知らず力がこもる。
ふっと、自分の胸が温かいもので濡れている事に気付いた。
「何故に泣く? そなたはまこと、相も変わらずよく泣くおなごだな」
まったく……泣きたいのはこちらの方だが。
軽く笑ってキャロルを見ると、手で口を覆い嗚咽を我慢していた。
泣かれるとどうしてよいのかわたしは解らぬと言うに。
困ったものだと苦笑してそっと愛しい背中をさすってやる。
「泣かずともよい。こうしてまた腕の中にそなたを抱くことが出来たではないか。そなたもわたしもこうして互いの胸の鼓動を感じることが出来たではないか。違うか? ん?」
震える小さな肩に口付けを落とす。
そこから体中にじんわりと温もりが広がり行くのを感じながらも、キャロルは顔を上げることが出来ない。
きっときっと……今わたし、ひどい顔してる。
どんな顔してあなたの顔を見ていいのか解らないの。
この数ヶ月、あまりにも色々なことが起き過ぎて……悲しみも苦しみも憤りも不安も喜びも……何もかもがもうぐちゃぐちゃで、自分でも訳が解らないの。
知らず知らず押さえ込んでいた色んな感情が、堰を切ったようにメンフィスに向かって流れ出した。
「キャロル……顔を上げよ」
「……」
「キャロル」
「いや……見ないで」
メンフィスは無理やりに顎に手をかけキャロルの顔を上に向かせると、真っ直ぐな瞳を突き刺していた。
メンフィスのその射抜くような強い視線に耐えかねて見つめ返すことが出来ない。
どうして……
どうしてわたし……
やっと、やっとメンフィスの元へ帰ってこれて……こんなにも強く愛されて……幸せすぎるくらい幸せなはずのに。
この幸せのために失った代償は……あまりにも大きすぎた。
それはもう二度と取り返しがつかない、あまりにも尊い大切な命だったのに。
神様はあの子だけじゃなく、目の前のこの愛しい人をもわたしから奪ってしまわれようとした。
全部わたしが悪いの。
全部わたしが蒔いた種だ。
あなたを信じなかったわたしのせい。
漸くまたあなたの腕の中に帰ってこれたのに、またすぐにあなたと離れて遠い海の向こうの国へと行かなくちゃならないことも、元はと言えばわたしのせいだから。
「……辛い思いをさせた……許せ」
腕の中、震える小さい肩を抱きしめながら、メンフィスは吐き出すように呟く。
「元はと言えばわたしのせいだ。そなたの気持ちを……かの王女への気持ちを一度は聞いておきながら、全く配慮に欠けていた。全ての元凶はそこにあった」
「嫌……あの人のことは話したくない」
忘れていた心の傷の瘡蓋(かさぶた)を無理やり剥され、胸を走る痛みに悲鳴を上げそうになる。
ドクン、と心臓が波打ち、いつかのように呼吸が苦しくなってしまいそうだった。
「ならぬ。いいから聞け。そなたの身を案ずるあまり、この話を避けてきたが、今この時、しかとそなたと向き合い話をせねばならぬ。ずっと心に闇を持つことをわたしは好まぬのだ」
嫌……あの人のことなんて聞きたくないし話したくもない!
どうしてわかってくれないの?
どうして? メンフィス……
そう言いたかったが声に出すことが出来ない。
心のどこかで「あなたの本当の気持ちが知りたい」―――そう囁く声が聞こえる気がした。
「そなたはあの時、わたしの態度が行き過ぎだと嫉妬して泣いておった。思いもよらぬことに驚きもしたが、わたしはそれを迂闊にも軽く聞き流してしまった。そなたがわたしを想い、他の女に嫉妬するなどおそらく初めてであったからな。それ故わたしは浮かれておったのであろう。実際そうであった。そなたがそれほどに、嫉妬するほどにわたしのことを想ってくれていると……嬉しさの方が大きかった」
「……」
「可愛い我侭だと……しかし些細な事だと決め付けた。なんと浅はかであったことか。それがあのような苦しみをそなたに与えることになろうとは思いもしなかった。そなたを抱きしめ口付けて宥めすかし、それだけでもうわたしの想いは伝わった気でいた。だが……それが大きな間違いであった。あの時もっとそなたの気持ちを汲み取っておりさえすれば――」
「――もういいわ、やめて」
「キャロル、いいから聞け」
「嫌よ、もう……終わったことなのよ」
「わたしの中では終わっておらぬ!」
頭の上で大きな声が響いて思わず身を縮める。
大きな声を出してしまったことを詫びるように、メンフィスはキャロルの髪を撫でながら、ゆっくりと穏やかに話し始めた。
「わたしがあの日のことをどれ程悔やんだか、そなたは知るまい。
そなたとて同じであろう。わたしの知らぬところで自分を責め続けたであろう。
互いにあの日のことを悔やみながら、互いの心に闇を残したまま、このままでまた離れ離れになりたくないのだ。こんな想いでそなたを遠くの国へ行かせたくない。
よいか、キャロル、あの時も今この時もこれより先の未来も、わたしにはそなた一人しかおらぬ。
そなたしか愛さぬ……いや、愛せぬ。そなたにあのような思いなど二度とさせぬ。
何故それが解らぬのだと……何故これほどそなたを、そなただけを愛しているのにわたしのことをだけを信じなかったのだと……何故わたしの腕の中へ真っ直ぐに帰ってこなかったかと、わたしはそなたを心の中で責めた。己の気の短さ、配慮の無さを棚に上げてな。
いくら悔やんでも悔やみきれぬ思いを、そなたを責めることにすり替えていたのだろうか。
気付けばいつしかそなたの愛に甘えきっておったのであろうか。……許せ、キャロルよ」
腕の中、波打つ黄金の髪がゆっくりと揺れて、消え入りそうな声が続いた。
「わたしも同じよ。なんて酷いことをするのって……わたしだけを愛するなんてどうしてそんな嘘をつくの?って、そうあなたを恨んだわ。愛してるのに……あなたを酷い人だと、一瞬憎んでしまったの。
だからあなたを忘れたいと、忘れられる場所へ逃げたかった。逃げずにちゃんと向き合うべきだったのに。
あなたを信じなかったから、よく確かめもせずに勝手なことをしたから、だから罰が当たったの。
取り返しのつかないことをしてしまった。わたしのせい……わたしのせいで……あの子を失った……あぁ!」
再び嗚咽が聞こえ、温かいものがメンフィスの胸を濡らす。
「止めよ……そのことは二度と口にしてはならぬと申しおいていたはず。けっしてそなたのせいではないと何度も申した。それ以上自分を責めることは許さぬ」
「うぅ……」
強い言葉とは裏腹に、優しく穏やかなメンフィスの声がキャロルの心に沁みこんでいく。
金色の髪に、白い手に口付けを落とし、メンフィスは涙にくれる蒼い瞳をじっと覗き込んだ。
「よいか、キャロル。これは一国の王としてではない、一人の男として申す。
わたしは……あのような厚かましく思慮深さの欠片もないような、我侭放題、恥知らずなおなごなど、疎ましく思いこそすれ、僅かなりとも心乱されることなど断じてありえぬ。
あのような災いをもたらすおなごなど……そなたを傷つけ悲しませる人間など、断じて許さぬ!」
「そ、そんなこと、口にしちゃ駄目よ」
身も蓋も無いあまりの言葉に驚いたキャロルは慌てて頭をふった。
「よい、本当のことだ。これは王としての言葉ではない。そなた以外誰も聞いておらぬ」
僅かに口元を歪め、忌々しそうにメンフィスは息を吐き出した。
「だが、この国の王としてわたしはあの時、あの国を無下にするわけにもいかなかった。わたしにとっては外交上、あれしきのことは何でもない社交辞令だが、今にして思えばそなたにとってみればこの上なく辛く苦しいものであっただろう。以前も申した通り、わたしは王として意に染まぬ事もやらねばならぬ時もある。この先にも色々なことがあるやもしれぬ。だが――」
メンフィスはその青白い顔を手のひらで包み込み、再び真っ直ぐな視線を突き刺した。
「そなたがわたしを信じねば、互いが信じ合わなければ、再び同じような悲劇が起こるかもしれぬ。
よいか?わたしを、わたしだけを信じるのだ。周りに惑わされてはならぬ。
ヒッタイトやアッシリア、バビロニアにそなたを奪い返しに行った時のわたしを覚えているか?天高く燃え立つ炎のようなわたしの想いを覚えているか?
どれほどにそなたを愛しているか! あの時と変わらず、いや、むしろこの胸の炎はなお大きく燃え盛っていくばかりだというに。それが解らぬのか?」
「……メンフィス」
激しい想いの言葉に目もくらむような途惑いと悦びを感じる。
ヒッタイトで、アッシリアで、魔の砂漠で……
その尊い命を懸けてわたしを奪い返してくれたこの腕が、力強く抱きしめてくれたこの腕が、他のひとを迎える筈など無いと、何故あの時信じなかったのだろう。
それほどまでにわたしを……
それほど愛してくれるあなたをわたしは信じずに……
ごめんなさい。
ごめんなさい、メンフィス。
許して……わたしたちの赤ちゃん……
あなたのこの腕の中に包まれているだけでこんなにも幸せだったなんて。
今更そんなことに気が付くなんて。
でも……
こんなわたしで、本当にいいの?
こんなわたしに、そこまで愛される資格があるの?
そんなキャロルの心を見透かしたかのように、漆黒の瞳が僅かに細められた。
「まだ信じられぬと申すか? ではそなたが案ずる暇もないほどに、その身にわたしの思いを刻み続けねばなるまい」
「? メンフィス?」
「覚悟いたすがよい。今宵こそは手加減いたさぬぞ」
「だ、駄目!駄目よ!まだそんな事しちゃ――あっ!」
言うが早いか、するっと胸元の飾り紐が解かれ、華奢な肩から夜着が滑り落とされた。
「メンフィスっ、やめ――」
「愛したいのだ、そなたを」
「でもまだ毒が」
「侍医から許しは得ておる」
「……嘘ばっかり」
「嘘ではない。そなたの体はもう大丈夫だと、そうネゼクが申しておった」
「! わたしじゃなくてメンフィスが駄目だったら!」
まったく聞く耳持たず、メンフィスはキャロルへ口付けの雨を降らせ始めた。
「そっ、それにさっきメンフィス、何もしないって……言ったじゃない」
「……うるさい!」
バツの悪さを誤魔化すように、力の限り抱きしめてくるメンフィスの肌が熱い。
まさか、また熱が?
はっとしたようにメンフィスを見上げたが、これ以上無いほどの強く熱い眼差しで見つめ返してくる。
こんな瞳の時のメンフィスは絶対に意思を曲げない。
こうなってはキャロルにはもう抗う術がない。
抵抗すればするほどメンフィスの攻めは激しくなると知っているから……この体に今、あまり無理はさせたくないから、だからせめて。
どうすれば優しく愛してくれるのか。考えるより先に、すでにそのことを知っていた白い肌が、みるみるうちに色を変えてゆく。
ほんのりと紅く色付く指先は観念したように力を抜き、誘うように黒い絹糸のような髪を掻き揚げていた。
「……愛してる」
「……ではもう何処へも行くな……ミノアになど行かせたくない。このままこの腕の中に閉じ込めておきたい」
「お願い、そんな聞分けのない子供みたいなこと言わないで」
「ならば旅立つ日まで、そなたを一刻なりともこの腕から離しはせぬ。よいか?一刻なりとも、だ」
「メンフィスったら」
「……キャロル……そなただけを――」
愛している……
愛している……
まるで呪文のように呟きながら、頬に、額に、肩に、唇に、優しい口付けが落とされてゆく。
口付けられた場所から、じんわりと……悲しみや、わだかまり、不安な気持ち、あの王女の顔……色んなたくさんの「心の闇」が溶け出して、取り除かれていく気がした。
それはまるで、魔法の唇。
あなたの愛が痛いほどにわたしを清めてくれるのを感じる。
あなただけがわたしの悲しみを取り去ってくれる。
あなただけが、わたしにこの世界で生きていく勇気をくれる。
こうしてまたあなたの傍で生きていけるなら、それだけでいい。
あの子を失った悲しみは、消えないかもしれないけれど。
それでも……もう振り返るのはよそう。
前だけを向いて生きていこう。
何があってももう揺るがない。
あなたを、あなたの愛だけを信じて生きていこう。
いつかきっと、永遠の命を授かる楽園で……
そこで待つ小さい小さいあの子を、この手に抱きしめるその日がやって来るまで。
わたしをあなたの腕の中に、ずっといさせて。
やがて―――
魔法の唇によって浄化された、一点の曇りもない蒼い瞳が、漆黒の瞳を捉えた。
その美しく波打つ黄金の髪のきらめきを集めたような、希望の光に満ち溢れた笑みを―――長い間待ち望んだものを―――そのまろやかな頬に湛えながら。