雫 2.


*注意書き

 ・国王一家ものはどうしても人情ものになってしまう(通称:渡る世間王家)





2.


「よいか、ラルフ。そなたがこれより先歩む道に、安泰の文字など無いと心得よ。 
そなたは誰よりも勉学に励み、誰よりも多くのことを学び、それらを糧としていかねばならぬ。
また剣術も武術も人並み程度で満足してはならぬ。この国一番の剣術の使い手となるべく鍛錬を積まねばならぬのだ。……もっともこれは、わたしとて未だに成しえておらぬがな」
「……」
「玉座というものは、幾多もの人間の流す血の海の上に浮かんでおるのだ。そこへ座する者は、それに相応しい人間となるよう己も血の滲むような努力をせねばならぬ。その者がそこへ座するに相応しくなくば、忽ちその玉座から引き摺り下ろされるのだ。そして後々そこに座すべき人間は他の誰でもない、そなたなのだ。解っておるのか?己の立場をしかと自覚いたせ」
「……はい」
「もっとも、この父とてそなたの歳の頃には、同じように遊びたい盛りであったがな」
軽く笑ってそこまで言うと、メンフィスはラルフを自分の方に向き直させ、蒼い瞳を覗き込むようにして人差し指を鼻の頭に突きつけた。

「だがこれだけは言っておく。幾ら嫌でも苦しくとも、歯を食いしばって耐えよ。この先そなたが学ぶことに無駄なことなど何一つ無いのだぞ。辛い思いも痛みもすべてそなたの血となり肉となる。そしてそれを身につけるのはそなたの務めでもあるのだ。解るな?」
こくん、と小さく頷くラルフだったが、父はその瞳にどこか納得し切れぬものが宿るのを見つけ、我が子の言葉を待った。

だがラルフは何も言おうとしなかった。
どうやって切り出そうか迷っておるのか、あるいは意地を張って言わぬつもりか。

その様子にメンフィスは僅かな苛立ちを覚え、と同時に幼い我が子の重責に耐える姿に憐れを禁じえなかった。
だが何としても乗り越えてもらわねばなるまい。
かつて自分がそうしてきたように。
そしてこの子にはそれが出来るはずなのだから。

「とにかく、勉学はそなたの務めだ。それを勝手に逃げ出すことだけはこの父が許さぬ。よいな?」
「……はい」
「その代わり、そなたの自由にしてよい時間ならば幾らでも遊ぶがよい。咎めはせぬ」
「……ですが、ちちうえ」
「何だ」
意を決したような蒼い瞳が父を見上げた。
「……このところつまらぬのです。べんがくの時間もつまらぬし……王宮で遊ぶのも、もうあきあきしたのです」

どこぞで聞いたような台詞に再び心の中で苦笑しながら、メンフィスは眉をしかめて我が子の顔を再び覗き込む。
「何が不満だ。ん?教師に不満があるのか?遊んでくれる御付武官が嫌か?」
「そうではありません!ただ……」
そこまで言ってラルフは唇をぐっと噛み締めた。
……言えるわけなどない。
大好きなちちうえに、「そんけい」してやまない偉大なファラオたるちちうえに……こんな思い、言えるわけが。
何をしても満たされぬこんな気持ちなど、この父に言えるわけがないではないか。


それとも……
言ってしまえば、また以前のように優しく甘やかしてくれるのだろうか。
生まれて間もない妹と同じように接してくれるのだろうか。
自分だけのちちうえとははうえなんだと、そう思っていたあの頃に戻れるのだろうか。

……だめだ、そんなこと……ぜったいに言えやしない。
そんなことを口にすれば、ちちうえもははうえも、ぜったいにわたしのことをおきらいになるにきまっている。
がっかりさせてしまうにきまっている。

小さい妹の存在がこれほど自分にとって脅威であるなど、父が、母が、周りの大人たち全てが自分の存在を忘れ、妹ばかりを可愛がっているように感じられるなど、とても言えなかった。

もしかしたら自分はもうただ邪魔な存在でしかないのかもしれないと、もういらない子なのかとそう思ったこともある。
だからきっと王子としての責務ばかりを押し付けられているのだと。

王子、王子、王子。
王子だから皆わたしを大切なふりして大事にあつかうだけなのか。
王子だから……

子供特有の突飛な考えではあったが、そう思えて勉学も鍛錬も反抗心から逃げようとしていたのだ。

でもちちうえならわかってくださるだろうか?

ふっとそんな想いがラルフの胸を過った。

誰よりも尊敬する父に打ち明けたい。
でもとても言える訳がない。

相反する気持ちを心に秘め、ただただ唇を堅く噛み締めるばかりの幼子。


しばらくその様子を見守っていたメンフィスは、湯あたりしないようにとラルフを抱きかかえ、浴槽の淵に腰掛けさせた。
自身も同じように浴槽の淵へ腰掛け、そして後ろの籠からざっくりとした麻布を取り出すと、ラルフの体や髪を拭いてやった。


「ラルフ、そなたは奇跡の子だ。そなたはキャロルとわたしの宝なのだぞ」
「!?」
「なんだ、その顔は。知らなかったのか?これは心外だな」
驚いて見上げる王子の心など見透かしていたかのように、唐突に父の声が優しく降り注ぎ、体を拭いていた布をぐるっと体に巻きつけられた。

そしてメンフィスも同じように布を取り、自分で軽く髪や体を拭くと、腰に布を巻きつけて再び隣のラルフへと視線を落とした。

「……そなたが生まれたあの日……まるで昨日のことのように覚えておるぞ。 
そなたの母は、キャロルは知っての通りあのように細い体であるばかりか、あろうことかそなたを身篭ってすぐに……まあ……色々と大変な気苦労があってな―――」
どこか言い訳じみた己の声色に気付き、メンフィスはふっと笑いを噛み殺し、だがすぐに真剣な眼差しを取り戻し話し続けた。
「いや、気苦労ばかりではなかった。実際体力的にもかなりの無理をしたせいで、あれは……一度そなたを失いかけたのだ」
「!」
「父は来る日も来る日も神々に祈り続けたぞ。わたしばかりではない。あの時、この国の沢山の人間がそなたとキャロルの無事を神々に祈り続け、沢山の民が昼と無く夜と無く王宮に神殿にと押し寄せた。そして神への祈りは聞き届けられ給うたのだ。皆の祈りによって、神々のご加護によって……いや、何よりもそなた自身の耐える力によって、またそなたを何としても産み落としたいと願う母の強い思いによって……そなたは命を繋ぎ止められ、キャロルもそなたもこうして無事にわたしの傍で生きていてくれている」

メンフィスはラルフの髪を撫で、そこへ口付けを落とした。

「ラルフよ、消え入りそうな命をよくぞ耐えてくれた。よくぞこのわたしの子として生まれてくれた。
あの日、そなたの力強い産声を聞いた時のあの気持ちは……あの悦びは……未だ言葉にも出来ぬ」
「……ちちうえ」
「だからこそ、そなたには立派な偉大な王になってもらいたいと、このわたしを超える王になって欲しいと……そう願えばこそ厳しいことも申すのだぞ。そなたは私とキャロルの宝であり、この偉大なるケメトの地の宝であり、未来そのものなのだ。そなたの代わりになる者など誰一人とておらぬのだぞ」


そなたはわたしとキャロルの宝なのだ。


父の声が幼い少年の乾いてしまった心を、その翳った蒼い瞳を、じんわりと潤わせていった。


漸くラルフは思い出す。

「無事に生まれてきてくれてありがとう」―――そう言ってはいつも頬に口付けて、ぎゅうっと抱きしめてくれる母を。
「ラルフ……わたしのラルフ」―――そう言ってはいつも優しく髪を撫でてくれる母を。
そして、そんな母と自分を丸ごと抱きしめて守ってくれる、強く逞しく、そして厳しく優しい父を。


ああ、そうだ……

ぼくはちゃんと……ちゃんと愛されていた……

愛されていたんだ……


「……ちちうえ!」

思わず縋り付く小さな体を、父の逞しい腕がしっかりと抱き止めていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ちちうえ!ひっく……ちちう……ひっく」
「何故泣くのだ。……ん? そのような姿を人目に曝してはならぬと常に申しておろう」
「は……い……ひっく」
「……まあよい。幼きうちは、誰も見ておらぬ処でなら泣いても構わぬか」
小さい体を撫で擦りながら独り言のように父が呟いた。

「ラルフよ……世継の王子として誰にも言えぬ孤独も心の闇も、この父ならば少しは理解できよう。
一人で闇を退治出来そうにない時は、そのような時は父に申せ。よいか?」
「……はい」
「だが人前で絶対に涙など見せるでないぞ。弱みなど決して見せてはならぬ。よいな?」
「はい……もう泣きません。わたしは……わたしは、上下ケメトの地を統べるサーラァたるファラオの子です。
ちちうえの跡をつぎ、このケメトの地をりっぱにおさめてみせます!」
「よくぞ申した!」

褒美のように髪をくしゃっと乱し、額と額をくっつけると、漸く王子の顔に笑みが戻った。
頬の窪みに触れてやると照れたようにまた己の腕の中へと顔を埋めた。

「おお、そうだ。そなた王宮で遊ぶのは飽き飽きしたと申したな」
「はい?」
「では父が今度早駆けに連れて行ってやろう」
「本当ですか!?ちちうえ」
「その代わり、しかと勉学に励むのだぞ? 教師にちゃんと報告させるからな」
「はい、ちちうえ!ありがとうございます!」

先程までの涙など忘れたように輝きを取り戻した蒼い双眸が、父を見上げた。


「失礼いたします、メンフィスさま。お二人が遅いとキャロル様が心配してお待ちにございますが……」

湯殿の入り口に架かる紗の向こうから、侍女が申し訳なさそうに声を掛ける。

「おお、そうか。すぐに参ると伝えよ」
「畏まりました」

「さあ、ラルフよ。父と子の内緒話は今日はこれまでだ」

メンフィスは立ち上がって衣装箱からラルフの腰布を取り出して着替えさせると、自身も腰布を巻き付け、ラルフの手を引き歩き出した。

「ナイショ……ですか?」
「んん?言ってもよいのか?王子が父王に叱られてめそめそと泣いていたなどと母に言えるか?」
「いっ、嫌です!ははうえにはナイショですっ」
「ははは……そうか」
笑いながら父は、真っ赤になって見上げる我が子の小さい手をぎゅうっと強く握り締めた。



―――父上……
あの日、父上がわたしに諭して下さったお言葉は、我が息子の心にも届いたでしょうか?
わたしは信じております。
あの日の父上のお言葉の意味が、幼き我が子に今は届かずとも、何時の日にかきっと伝わると。
そしてこの子がこの国を統べる時には、またその子らへと伝えられて行くのだと。

父上、
どうか見守り下さい。


……父上……


「―――ちちうえ?」

はっとして声の方を見下ろすと、ラルフが不思議そうな顔をして己を見上げていた。
辿り着いた部屋には夕餉の匂いがたちこめ、それは空腹であったことを如実に王に思い出させる。
そしてすうっと顔を上げその先を見やると、愛する妻が微笑みながら食卓に着き二人を待ち受けていた。

「さあ、ラルフ。キャロルが待っておるぞ。行くがよい。」
「え?」
「今赤子は眠っておる。母を独り占めできるのは今だけぞ?」
「ちっ、ちちうえっ!」

聞こえたのか聞こえていないのか。キャロルが両腕を広げてラルフに微笑んでいた。
「ラルフ、さあいらっしゃい。かあさまに顔をよく見せてちょうだい。ちゃんと綺麗にお顔を洗ってくださったかしらねえ?とうさまは」
「ふん、失礼なやつめ」
メンフィスの反応にくすくすっと笑って手を差し出す母の姿に、王子は理性など吹き飛んだかのように駆け出しその白い腕の中へと飛び込んで行った。

「まあ、まだここにほら、汚れが」
そう言って埃混じりの目脂を拭ってやると、嬉しさを隠し切れぬように頬を綻ばせ母を見上げた。

「かあさま」
「なあに?ラルフ」
「……ううん、なんでもない」
「なあに?変な子ねえ」

ああ、ははうえの匂いだ……
ぼくの大好きな……甘くてあったかくって……やさしいあの匂いだ……

安心しきったように、ただ抱きついて甘えるばかりの我が子の髪を、母はそっと掻き揚げてやる。

「わたしのラルフ」

ごめんね。ごめんね、ラルフ。
かあさまはあなたのこと、こんなに愛してるのよ。
きっとわかってくれるわよね?

ゆっくりとその小さい体を揺らすように、揺り篭となったキャロルの体も左右に揺れる。

目の前の母と子の姿の神々しさに、王は葡萄酒を口に運ぶことも忘れ、ただただ陶然と見とれていた。



「なあに?メンフィス」
「いや、何でもない」
「なあに?二人ともどうしちゃったの?同じこと言って」

キャロルの言葉に、父と息子は悪戯の共犯者の様ににやっと笑いあった。


と、その時、部屋の隅に置かれた揺り篭の中から、僅かに赤ん坊の声が聞こえた。
「あ、起きちゃったかしら」
「ははうえ、ぼくが見てきます!」
「ラルフ!」

ラルフはキャロルの膝から飛び降りると、侍女が傍に付き沿う揺り篭へと走って行き、そうっと恐る恐る中を覗き込んだ。


「あ!笑った!ははうえ、ネフェレトがぼくを見て初めて笑いました!」
「まあ!」
「ほらっ、また笑った!」
まるで初めて見る生き物にでも触れるように、ラルフは目を輝かせて小さな妹の頬を突っついたり、髪を撫でたり、手を足を握ったりと興奮気味で揺り篭から離れようとしなかった。
小さい自分の手よりももっともっと小さい妹の手が、その余りに小さい指が、自分の指をぎゅうっと握り締めて離そうとしないのを、不思議な気持ちでじっと見つめた。

うわ、すごい力!こんなに小さいのに。
それに、なんて小さい爪なんだろう。

何故だか解らないけど、たったそれだけのことで暖かく優しい気持ちになれた。
そして、この小さな妹が何物にも代え難い、愛しい存在に思えた。

自分も同じくらい小さくて、同じようにこうやって誰かの指をぎゅっと握ったんだろうか。
ちちうえやははうえの手をこうして。
その時ちちうえもははうえも、こんな気持ちでわたしを見つめてくださったんだろうか。

こんなに小さくて愛らしい妹に、とうさまとかあさまをとられたなんて、なぜそう思ってしまったんだろう。


ラルフは「ごめん」と小さく呟いて、父がそうするようにその小さい指を取ると、そっと口付けた。
そして柔らかい髪を撫で、何時までも傍を離れようとしなかった。


「―――ふふっ、良かった」
そう言って潤んだ目を細め、その光景を見つめるキャロルの頬に、ふっとメンフィスの手が触れた。

「メンフィス」
「ん?」
「あなた、ラルフに何の魔法をかけたの?」
「それは言えぬ。父と子の、男同士の秘密だ」
「まあ、ずるい」

メンフィスはふっと微笑むと、いつの間にか蒼い瞳からこぼれ落ちていた雫を指で優しく拭い取り、薄紅色の愛らしい唇へそっと口付けた。
唇を離して見つめあい、再びそれを重ねる。
給仕の侍女たちがどうしたものかと顔を見合わせる中、それはいつまでも続いた。



今宵は……今宵こそは……
そなたをこの腕に……!





―――だがその陶酔もたった一言で終わりを告げ、一瞬にして怒れる獅子へと変貌を遂げた王が、大人気なく息子と小さい戦を起こすことになるのだが。


この甘美なる時、彼の王は未だそれを知らない。







その小さき戦の火蓋は、こうして切って落とされたのである。


「ラルフ、今夜は久しぶりにかあさまと一緒におやすみしましょうね」
「ほんとうですか!?かあさま!」


な、なにーー!?





おしまい







ひとことメモ

 「王宮で遊ぶのも、もうあきあきした」ってセリフはパパ上が「久遠の流れに…」で言ってたやつ。
 その時、ペセド君みたいにオロオロしてた御付武官がミヌさん。すっかり立派な将軍になりました。
 この後の父子の戦いを「紅焔(こうえん)」というコメディにしてあります。
 そちらもお読みくださると嬉しいです。