雫 1.


*注意書き

 ・メンパパ色気なしの人情劇場
 ・ショタ萌えさん向き……かも




1.


―――「ふん、追いついてみろ!のろまめ!」
「で、殿下!お待ちください、殿下!」
「ははっ」
「殿下ー!!」

肩先辺りで切りそろえた黒髪を風に靡かせ、御付き武官のもがく様を愉快そうに見ていた少年は、踵を返すと走り出した。

「ええい、何をしておる!早く殿下をお止めしろ!」
駆けつけた衛兵に向って吼えながら、顔だけはひと時なりとも少年から目を離さぬよう前を向く青年。

彼の名はぺセド。

王家の近衛隊に属し、王子の護衛団の一員でもある。

今日も王子に罠を仕掛けられ、足元を掬われながらもがき苦しんでいた。

「殿下ー!なりませぬー!」
ようやく罠を外されたぺセドが先に走る衛兵の後を追う。

美しく手入れの行き届いた庭園の花達が無様に舞散り、この庭の女主人の嘆く姿が想像されたが、そんな事に今思いを馳せてなど居られなかった。

何としても今日という今日こそは恙無く過ごしていただかなくては!

すばしっこい王子は大人たちをあざ笑うように巧みに隠れ場所を移動しつつ、池の反対側へと足を進めていた。

「ふん」と満足そうに鼻で笑って、くるっと振り向いた瞬間、腕を組んで仁王立ちし、じっと見下ろす大男に行く手を阻まれる。

「!」
「これは殿下。どちらへおいでで?」
「どっ、どけ!ミヌーエ!」
「おっと!ラルフさま、逃がしませぬぞ」
「はっ、放せーっ!」
「ぺセド!何をしておる!殿下はこちらだ」

くっそう!
こやつめ!なにゆえにいつもわたしの行く手をはばむのだ!

百戦錬磨の将軍が王子の行きそうな場所、仕出かしそうな悪戯など、経験上からあっさりと見抜いてしまっていることなど、幼い王子には想像だに出来なかった。
何しろ王からの信頼も厚いこの将軍は、王の子供時代にも、同じように散々な目に幾度も遭っているのだ。
腕の中で力いっぱい暴れてみたが、鍛え抜かれた大人の逞しい腕に敵うはずも無く、あっという間に御付き武官の手に引き渡された王子は、精一杯の威嚇を込めて将軍の目をキッと睨み付けた。

「おのれ、ミヌーエ!おぼえておれ!」
王子の威嚇にも全く動じず、むしろ不敵に笑みを返す将軍は、しかしぺセドに対してこの上なく厳しい顔で向き直った。

「御付武官たる者がそのような油断など以ての外だ。殿下に何かあれば如何致す」
「はっ……まこと不甲斐無きことにございます」
「早く殿下をお部屋にお連れいたせ」
「はい。申し訳ありません」

ミヌーエ将軍の厳しい視線を全身に感じながら、ぺセドはいまだ暴れる世継ぎの王子の腕をしかと握り、王宮に連れ帰った。

……はあ……。

算術の授業の前のひと時。
午睡する王子の護衛をしているうちに、己もついウトウトと眠ってしまっていたのだろうか。
気が付くと手足に罠が仕掛けられ、それを嘲笑うかの如く、一陣の風と共に王子が消え去っていた。

全くこの世継の王子ときたら。
隙あらば部屋を抜け出し、悪戯を仕出かしては御付武官を痛い目に遭わせ、見兼ねた父王に叱られてはまた御付の者にとばっちりが向く。
まだ5つになって日も浅い幼さだというのに、大人も舌を巻くほどの悪戯の巧妙さには限りが無い。
ひと頃までは多少男児らしくやんちゃな面も確かに見受けられはしたものの、実に素直で可愛らしい、あまり手の掛からない子供であったと聞いていた。

それがどうだ。
何時頃からなのだろうか。まるで眠れる獅子の目覚めたが如く、父から受け継いだ気概が目を覚ましたのだと言う。

自分がこの王子の護衛団の一員になって未だ三(み)月。
完全に見下されている感は否めない。
自分が傍付きの時に特に決まって大きな騒ぎとなるような気がする。

上官のウナス隊長のように、未だ上手にこの王子を宥めすかすことが出来ない。歳若な下っ端の兵士ならば致し方無い事ではあったが。


―――「まあ!ぺセド様!漸く連れ戻して下さったのですね?」
王子の部屋で待ち受けていた数人の侍女達に王子を引き渡すと、ぺセドはふうーっと息を吐いた。

「さあさあ、ラルフ様。隣のお部屋で先生がお待ちですよ」
「ちっ。待たずともよいものを」
悪態をつきながらも漸く観念した王子は、二人の侍女に手を引かれながら、算術の教師の待つ部屋へと向かった。





―――――「何?ラルフがまた?」
「ええ……いけませんとあれほど言い聞かせたのですが、その……」
「その、何だ?」
「護衛の者にまた罠を仕掛けられてございます」
王の自室で次々に外されて行く装飾品を受け取りながら、ナフテラ女官長がため息混じりに告げた。

ふうむ……
流石はわたしの息子だと言うべきか。

妙に感心したように心の中で笑いを噛み殺し、しかし感情を押し殺して、王は威厳を保った表情でナフテラへと振り返る。

「ではわたしのほうから王子に厳しく申し聞かせておこう」
「はあ……ですが」
「案ずるな。あれの気持ちは誰よりもこのわたしがよう解っておる」

その言葉に在りし日のメンフィス王子の悪戯三昧な日々が脳裏を駆け巡り、綻ぶ口元をどうにか堪えると女官長は深々と頭を下げ部屋を下がって行った。









―――王の帰館の触れが出されると、一気に王妃の間が気色に包まれる。

常ならば真っ先に駆け寄り自分を出迎える筈の息子が姿を見せない。
予想していたこととは言え、メンフィスは心底がっかりしたと同時に、我が子の憂いの大きさを案じた。

小さくため息を吐き、部屋の奥へと足を進めると、ナフテラに手を引かれ、奥の間の入り口で漸く父を待ち受けるラルフの姿があった。

「お帰りなさいませ、メンフィスさま」
「お帰りなさいませ、ちちうえ」
「うむ、今戻ったぞ」
知らぬ顔を装い、腰を落として我が子の黒髪にそっと手を触れる。
叱られる事を恐れているのか、あまり目を合わせようとせず、誤魔化すように抱き付いて来た。
そのまま抱き上げて部屋の奥まで連れて行き、寝台脇の寝椅子へと座らせた。


「おかえりなさい、メンフィス」
「おお、今戻った」
寝台の上に背を起こし、乳飲み子を抱きかかえる妃の頬に口付けを与えると、王は妃のその白い腕に抱かれて眠る子の、少しばかり汗ばんだ額にそっと口付ける。
「たった今眠ったとこなの」
「そうか……では抱き上げるわけにはいかぬか」
僅かに残念そうな顔をして、メンフィスは再び乳飲み子の柔らかい濃茶色の髪へと口付けた。
「姫よ、そなたはまこと、こうして眠る姿も麗しい。そなたの母と同じようにわたしの心を捉えて離さぬ」
「メンフィスったら」

その様子を憮然としたように見ていたラルフは、ふん、と鼻を鳴らすとそっぽを向いた。

侍女たちがそんなラルフの様子に微笑みながらも、どこか憐れみの表情を浮かべていることにラルフ本人も気付いていた。
そのような目で見られることが我慢ならなかった。
機嫌を直そうと赤子のようにあやされるのも気に入らぬ。
なんだというんだ!どいつもこいつも!
ちちうえも……ははうえも……わたしのことなど目にはいっておられぬのか?
なにかというとネフェレトばかりをおかまいになって、わたしのことなどまるで……

そこまで考えてラルフは目の奥がつん、と痛むような感覚に捉われて、慌てて踵を返すとバルコニーの方へと走り出した。

「ラルフ!」
「殿下!」
キャロルや侍女たちをそっと手で制すると、メンフィスは立ち上がりラルフの後を追う。

すっと王子の傍に歩み寄り、艶のある黒髪にくしゃっと手を入れると、潤んだ蒼い瞳が父を見上げた。

「ラルフ、夕餉の前に剣の手合いをしてやろう」
「ちちうえ」
「さ、行くぞ。着替えてまいれ」
「はいっ」

叱られるとばかり思っていたのであろう。
ラルフは一瞬きょとんと目を見開いて、拍子抜けしたような顔で父を見上げると、すぐに嬉しそうな顔をして駆け出して行った。
その後姿を見送るメンフィスの瞳に亡き父王を重ね、ナフテラは感慨深い思いでその様子を見守った。


ラルフの下に王女が誕生してからの国王一家には、限りない喜びと共に小さな心配事も生まれていた。
妹姫へのラルフの嫉妬である。
それまで父母の深い愛情を一身に浴びて、何一つ不安なく毎日を健やかに過ごしていた息子に変化が現れ始めたのは、キャロルのお腹が大きくせり出して来た辺りからであった。

妃の母御の許へと旅をした辺りから、父譲りの気性の激しさ、誇り高さが顕著に現れ始めたことは理解していた。
そしてそこはやはり親子である。
ことキャロルの愛情を自分一人のものとせんが為、赤子の頃に戻ったように母にべったりと甘え始めた息子を憂いつつも、メンフィスはやはりわたしの息子なのだと苦笑せずにはいられなかった。

そして王女が無事誕生し、後宮に賑やかな毎日が再び訪れた。

息子の時と同じように、乳母を頼らず出来るだけ自分の手で育てたいと奮闘するキャロルには、今のところ十分にラルフに構ってやれる時間が持てずにいた。
何しろ不規則な睡眠に加え、漸く元の体に戻りつつあるキャロルに無体なことは出来ないとは言え、メンフィスが傍に置きたがらない筈が無い。
一日の時間は限られているのだ。
そのことで心を痛め、出来るだけラルフに残りの時間を注ごうと試みるも、肝心のラルフは拗ねているのか、拗ねていることを隠したいのか、自分の周りに見えない壁を作り始めてキャロルを寄せ付けない事もしばしばであった。
時が来れば自然と己の立場を受け入れ、嫉妬心もそんな拗ねた態度もやがて消えましょう、ご心配には及びません、そう何度ナフテラに言われたことか。

そして悪戯の数もその頃から頻繁に増してきたこともキャロルの心配の種であった。

ここはナフテラの言うとおり、ラルフを信じよう。
メンフィスと出した結論ではあったが、やはり心配で堪らない。

だが意外なことに父親であるメンフィスがキャロルを救ってくれていた。
多忙を極める王であるメンフィスが、それまで以上に何かと息子を構い始めたのである。








メンフィスは夕刻、自ら鍛錬場でラルフに剣の稽古をつけてやると、その後湯殿へもラルフを伴った。
侍女を総て下がらせ、自らの手で土埃だらけの体と髪を丁寧に洗ってやり、代わりに背中を布で擦らせ、肩や腰をトントンと叩かせる。
そらっと浴槽に放り込んでやると、子供らしい嬌声をあげてバシャバシャと跳ねた。
そのうち浴槽にザバン、と飛び込むことを面白がり、何度も何度も繰り返しそうする我が子に苦笑しつつも、父と息子の時間を愛しむように過ごす。

今は亡き父王と過ごした幼い頃の僅かな時間を思い出すように。

そして亡き父王に諭された言葉を今度は己が我が子に伝える番だった。

「それくらいにしておけ。ラルフ、こちらへ参れ」
ラルフを膝の上に向こう向きに座らせるようにして浴槽に身を沈める。 
ラルフは一応大人しくメンフィスの膝の上に座っていたが、手でばしゃばしゃと湯を弾いて遊んでいた。

「ラルフ、今日父は面白い話を聞いたぞ」
「!」
「なんだと思う?聞きたいか」
「……おもしろいはなし、ですか?」
「そうだな……そなたにとっては面白くない話かもしれぬがな」

そらきた!とばかりにラルフは目をぎゅっと瞑った。

「そなた、今日もまたぺセドを罠に掛け、勉学の時間を逃げ出そうとしたそうだな」

父の言葉にラルフの動きが止まり、みるみる肩がしゅんと小さくなった。
「しかもそなた、ミヌーエに捕らえられたそうだな。あやつの目を掠めることは雲を掴むより難しい。そう知らなかったのか」
「……ミヌーエが……そう言ったのですか」
「『ミヌーエからは』聞いておらぬがな。誰が私に言ったのかなど、この際どうでもいいことだ。
わたしの許にはあらゆる者から色々な報告が成されておる事はそなたも重々解っているであろう」
「……」
「……全くしょうがない奴だ」
メンフィスはそう言って後ろからラルフの前髪を掻き揚げると上から覗き込むように見下ろした。
「そなた、勉学は嫌いか?」
「……嫌いなものもあります」
「そうか……では偉大な王にはなれぬが、それでいいのだな」
「!」
「字も書けぬ。読むことすらも出来ぬ。兵法どころか馬にも乗れず、剣の扱い方すら知らぬ。算術も解らぬ。
……まるで赤子ではないか。それでこの父の跡を継ぎ、この偉大なるケメトの地を統べるファラオになれるとでも思うておるのか?」
「そ……そのようなこと……」

大好きな父との楽しい時間であったはずが、急に恐ろしく息苦しい時間へと取って代わって行く恐怖を味わい、ラルフは一刻も早くこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。
それほどに怒った時の父はただただ恐ろしい。

だが、頭上から降ってくる父の声は、あくまでも冷静でゆったりとしたものであった。
いつもひどい悪戯をして怒られる時にはこのような怒り方はなされない。
それ故、却って本気でこの父を怒らせてしまったのだと思い至り、その思い付きは小さな肩をますます強張らせた。









ひとことメモ


 ネフェレトちゃんの名前はパパ上(メンネフェル)から。
 一瞬出てきたミヌさんにΣ(゚∀゚ノ)ノキャー♥(バカ)